白き姫 緋き瞳

――衝動の正体は、殺意であった。
 少女にとってそれは生涯で最初に受けた侮辱であり、衆目に晒された穢れであった。少女の雪白な肢体に宿る破壊的な天稟は、その辱めを与えた相手を殺さずには居れなかった。
 王女は十歳にして、りくするべき男を知った。

 その男の名を耳にするだけで、少女は心裡に憎悪の焔を宿した。
 夜毎、如何に残虐な方法でその男を殺すか夢想し、彼女の糞尿にまみれたその屍体を思い浮かべるだけで、少女は天へ至るほどの快絶におぼれた。

 その男の冷たい眸を思い浮かべるだけで、少女は叫び出したくなる程の感情を覚えた。 夜毎、自分のからだの深奥からこみ上げる、得体の知れない化け物へ、少女は自分のおさないからだを贄に供した。
 その男の温かいかいなの優しさを想っただけで、少女は滂沱と涙をながした。

 夜毎、化け物に蹂躙された後の朦朧たる意識のなかで、少女は幾度となく男の名を呟き続けた。

 王女は、十歳にして紅蓮の恋を知ってしまった。

白き姫 緋き瞳

 一.

 フランドル暦一八一年、九月の事のことである。

 フランドル国王にしてプロイツェン国王、またロンバルディア諸侯会議でロンバルド国王の空座を預かる身となった「無謬王むびゅうおう」キルデベルト六世陛下は、この八月から、東都ランスの郊外に御幸していた。 王に従うのは、王の家族とその近従一〇〇名、八名の方伯、二〇名の旗騎士および一〇〇名の騎士、加えて彼らの扈従三〇〇名。夏季にかけて、かれはこの動く宮廷を伴って、数日かけて東の都を巡察するのである。

 

 今年この行列の先頭を許されたのは旗騎士ラヴォワ殿であるが、彼は王の度々の忠告に従わず、老齢を押して伝家の甲冑を着込み、さらに自ら王旗幟バニエレ・ド・ロイまで担おうとした為、エーヌ川のあたりで年来の腰痛を悪化させてしまい、歩行も覚束なくなった。

 結局、王の指示により、かれは無念にも逗留することになったが、その地がたまたま湯治のできる町であったことが、彼にとってせめてもの幸いである。

 さて、この敬愛すべき頑迷なる老騎士の騒動があり、彼の代わりを誰が務めるかという相談も紛糾し、行列はここでなんと四日も滞った。

 パリからランスまでの、後に貴婦人街道シェマンデダームと呼ばれる行程は、馬車の速度で一〇日ほどのはずであったから、この四日のずれは、行列の宰領担当官と、何よりランスの城令と祝宴担当者を大いに悩ませた。せっかく手配した、鮮度のよい食材が、みな駄目になってしまうからである。

  

  

 散々に諸人を困惑させて、王の一行がランスに到着したのは、結局予定より七日も遅れての事であった。

 予定されていた饗宴は三度も延期され、その都度招集されていた楽隊は、三度分の手当をランス城に要求する始末である。

 饗宴は、王が到着したその日のうちに開催された。

 王とその一行は、なんと旅装を脱ぎながら、それぞれの席へ案内されたという。何故これほど急ぐかというと、この翌日こそが、キルデベルト六世陛下生誕の日であり、その祭日の演目として、様々な行事が予定されていたためであった。

 ──ちなみに、王の到着が予定から遥かに遅れた為、四日前にランス郊外の平野で開催される予定であった豪壮なる馬上槍試合トゥルネイは、明日にまでずれ込み、その前日祭であるはずの一騎討試合ジャウストは中止になっている。

 

  

 諸記曰く「何もかもが突貫で用意された」わりには、饗宴はなかなかに好評を博した。

 その日の趣向は「野宴」であり、宏壮な広間を庭園と見立て、木々の合間にテーブルを配し、招かれた諸賓がその野趣に興じている、という物語風の筋書きなのである。

 なるほど森を象った宴場にしつらえられたテーブルには、鶉、雉、美しい孔雀の姿焼きが、まるで生きているように配され、大皿には鹿や猪、山羊、兎の照焼がふんだんに盛り付けられていた。

 精密なミニチュアルの様に技巧を凝らした細工料理ではなく、素朴で大味な野宴の形式をとった事で、かえって贅沢に飽いた諸侯は感興を催したらしい。

 冒頭にもお話ししたが、これは王の到着が三度に渡りずれ込んだ末に考案された、いわば苦肉の策なのである。

 老騎士ラヴォワ殿は、前日までエーヌ川からこちら側での評判は散々であったが、今宵からは大いに感謝されるべきであろう。素朴の中にも贅を尽くした饗応ぶりに、王と扈従の諸侯は満足の意を表し、ランスの城令と家宰は大いに面目を施しというのだから。

 

 この宴席で廃棄された余剰の食材、たっぷりと脂を吸った大量の皿パントレンチャは、城外の庶民に振る舞われ、馬上槍試合トゥルネイの前夜祭で盛り上がる彼らの腹を満たしたものである。

 

 

 ――ところが、誰もが満たされた胃腸と栄誉に膨らんだ腹をさすった夜、ひとりだけ、満たされぬ少女が居た。

 キルデベルト六世が伴ってきた、彼の一人娘、ことし十歳になる王女イレーネ殿下である。

 

 

 二.

 

 稚い王女イレーネの外貌は、この当時から唄われている通りである。

 女性の金髪の美しさを褒め称えるとき、たとえば「金雀児えにしだよりも明るく…」と云い、その蒼い眸の澄んださまを「切り出したガラスのように美しく」と喩えるものであるが、この王女はどちらにも当て嵌まらなかった。

 王女の髪は銀を融かして梳いたように白く、またその肌も朝日に照らされた処女雪より白く透明で、眸は紅玉を填め込んだように紅かったのである。

 その、創造主が何かの気まぐれで生み出したような、病的にまで白い王女殿下の姿は、半神的な趣さえあって、宮廷詩人格好の題材なのであった。

「白き乙女が微笑む姿を見ることが叶うならば――」

 という慨嘆が常套文句に持ち出されるほどに、その王女は笑う事が無かった。

 

 さて。その白き王女が、貪婪な王でさえ満足するほどの御馳走へ、まるで手を付けないのを見て、王とその家族の給仕を務めていたランスの令はひどく驚いた。

 副都の令職は、王に代わって都城を預かるいわば城代であるため、他の封建城主と違って官吏の性質がつよい。かれは宮廷人としての嗅覚で、稚い王女の不興を恐れた。

「――殿下、殿下、薬味の利いたこちらの雉のローストは如何ですか。ああ――お気に召さねば、このシロップ煮の梨などは如何でしょう」

 などと、かれは実に甲斐甲斐しく給仕を行った。

 が、高椅子に座する白の王女は、まるで何も聞こえぬかのように、冷然とそれを無視するのである。

 これは、御耳が遠あそばしたか、と、ランスの令が思うのも無理からぬ事ではあった。かれは、ソースのたっぷりかかった鹿の薄切りを、宮廷人らしい優雅な指使いでつまみ、王女の口のそばまで運んで差し上げた。

 とたんに、王女がその肉を振り払った。肉は回転しながら宙を飛び、三席隣のトゥール伯の顔面を直撃した。

 折り悪く酩酊していた伯は、それがランスの城令の仕業かと思い、給仕へ言いつけ、即座に罵倒を届けさせた。お互い、やんごとない騎士であるため、その非礼の凄まじさに驚いたランスの令は、「明日の馬上槍試合トゥルネイで詳しく伺いましょう」との返礼を、同じく給仕に届けさせた。

 これほどの騒ぎにもかかわらず、王女は、白磁人形の如く無表情に前を向いているだけであった。

 むしろ見かねたのは王の方で、かれは伯へ向き直り、事情を釈明して城令を弁護するとともに、わが愛娘へ訓戒をたれようとした。

 さて王が、口を開いたそのとき、唐突にラッパの音が鳴り響いた。

 一同、ざわめきの中で広場の入り口を見るや、内膳官が大声で、

「――ロンバルド国より、旗騎士アルヴァレス卿がご到着であります」

 と呼ばわった。

 これには、王も城令も伯も喧嘩どころではなくなった。ざわめきは、響動めきとなって広間の緞帳を振るわせたほどである。

 

 三.

 

 

 旗騎士アルヴァレス卿とその一団は、旅装というよりは武装した姿で、疾風の如くランス城へ現れた。

 暁暗せまる街道に土煙を捲き上げ、数十騎におよぶ黒衣の騎士たちが、槍の穂先を直上に揃えて騎行してくる光景は、街道を急ぐ旅人達を心底怯えさせた。

 おまけに、彼らの掲げる槍旗ペナントは、黒地に髑髏をあしらった不吉な紋章であり、その髑髏が無言で眼前を通過してゆくさまは、もはや不気味どころではない。

 

 アルヴァレス卿は、迎賓の為に用意された旅籠に騎馬と武装を置き、騎士郎党らを留めるや、自らは長剣を佩いただけの軽装で、さっそく都城へ登った。

 先程の饗宴の最中、ファンファーレでもって一同へ知らしめられたのが、これである。

「アルヴァレス卿、登城」

 と聞いて、驚き騒がぬ者は無かった。

 異邦人である旗騎士アルヴァレス卿は、もはやただの騎士ではなく、小封をもつ将領である。しかも、未だ王化の風を拒む旧プロイツェン・ロンバルド国境近辺の叛城を、次々と攻撃している最中の筈であった。これはあと一年は転戦せねばならぬほどの難役なのである。

(いや、彼にも可愛気がある。──戦場を抜け、王の誕生日に合わせて、にわかに伺候するとは)

(婦人と君の寵は喪うべからずだ。存外、抜け目のない男とみえる)

 などと、「野宴」に興じていた諸侯や騎士らは噂し合い、貴顕淑女ことごとく、興味深そうに身を乗り出して、アルヴァレス卿の入場を待ちかまえた。

 

 やがて、楽の音を断ち切るようにして、アルヴァレス卿が、広間へ出現した。

 傲然──と云ってよい。小さなざわめきの中、趣向を凝らした宴席や、諸卿と貴婦人方の好奇に満ちた視線を冷淡に無視し、アルヴァレス卿はまっすぐ王の元へ向かった。

 意外なほどに若々しい貌である。諸国の列王からは「死神VELES」とまで怖れられているアルヴァレス卿は、この年で三十ほどの筈であった。

 ベルガ人らしく長身で、眉目は秀麗といってよく、その眸にえたいの知れぬ翳を宿していなければ、涼やかな若武者と称えられたであろう。

 

「王よ──」

 アルヴァレス卿は、キルデベルト六世の眼前に拝跪すると、淡々と告げた。

「王の東方での憂いが悉く除かれ、私の任務が終了したことを、報告に参りました」

 これには、王よりも先に、その場に居合わせた諸侯、旗騎士らが一斉に立ち驚いだ。隣り合う人々が互いに耳を疑い合い、静まっていたはずの宴席がまた響動めいた。

 報告を受けたキルデベルト六世は、軽くうなずくと、アルヴァレス卿へ親しく下問した。

「かの地には、容易ならぬ数の叛賊が城を頼りに、余へ対し不羈を気取っておったと思う。して、卿は幾つの城を攻め毀ち、余が軍門へ降したのか」

 アルヴァレス卿は、誇る風でもなく、ただ例の陰鬱な声で淡々と答えた。

「東方に盤踞する叛賊、いまだ陛下の御威光に跪かぬ不逞の城、合わせて八四城でございます」

 途端に、得たりとばかりの哄笑をうかべ、キルデベルト六世は群臣へ向き直った。

「お聴きになられたか、諸卿──」

 明朗に呼ばわりつつ、王は席を立って、段を降りてアルヴァレス卿の手を取り、肩を抱くようにして皆へ云い渡した。王も、アルヴァレス卿に並ぶ長身である。

「これが、ベルガの将軍アルベルジュだ。賢明なる我が姉、かの大公妃殿下も、かれの任務は翌年の六月まで掛かるであろうと仰せであったが、余は、彼がこの任を誰よりも早く仕上げるものと知っていたし、それが年を越すまいということも解っていた。だが教えて欲しい諸卿よ、今は何月か」

「九月であります」

 一同が唱和するのをみて、王は得意げに頷いて見せた。

「その通りである。余は、この最良の日に、この最良の使者を迎えることが出来た事を何より仕合わせに思う。──アルヴァレス卿、王たる余は、凱旋した勇者に然るべき褒賞を取らせねばならぬ。そして王にとって、その仕事は決して労苦ではないのだよ」

 キルデベルト六世陛下は、上機嫌にアルヴァレス卿の肩を叩きながら、自分に近い席──すなわち、イレーネ王女の隣の席へ誘った。

「まずは、この白鳥の雛肉を食べたまえ。戦傷は無いでしょうね、アルヴァレス卿」

 などと、この国王は、大いに親しみを込めて労うのである。

 これこそキルデベルト六世陛下の奇癖であり、彼は機嫌が大変よいときはその上機嫌を、不機嫌なときにはその不機嫌を、臣下に分かたずに居れない性質なのであった。

 睦まじく振る舞う王の姿を遠くで眺めていた騎士たちは、いつかはアルヴァレス卿に肖りたいものと、悉く羨望の念を強うしていた。

 四.

 

 

 翌朝――。

 ランス南郊の草原に設営された、広大なる試合会場は、早々と人で溢れかえるほどの盛況を見せた。

 何しろ娯楽の少ない当時、こういった馬上槍試合トゥルネイは、精強なる騎士たちの功名、蓄財の場であるに留まらず、男も女も、老いも若いも、とにかく貴賤の別なく熱狂できる壮大な見せ物でもあったのだ。

 まして王陛下の親覧する試合ともなれば、それへ従う諸侯と、彼らが引き連れる騎士殿の顔ぶれたるや、ガリアの至宝が集まったかと思われるほどのものであった。

 

 会場を取り囲み、また幾つかの区画を作るために突き立てられた柵越しに、身分の低い者どもが声をはり上げ、無人の試合場へ歓声を送り続けている。

 また、会場の四隅には色とりどりの天幕パヴィリオンが張られ、中では出場を予定している騎士たちが、めいめいの従者に武装を手伝わせているところであった。

 それらを見おろす位置に普請された桟敷アリーナのうえに、広い毛氈が敷かれ、金で縁取りされた豪華な天蓋が設置され、そこへフランドル国王キルデベルト六世の玉座があった。

 一段低い桟敷にも、それぞれ華麗な装飾の施された席が用意され、王女イレーネ、諸侯、そして仕合のもう一方の主役である貴婦人方が着席した。

 

 仕合に出場する騎士達は、華々しい甲胄と目にも鮮やかな配色の上戦袍シュールコーに身を包み、同じ色の装飾馬衣カパラコンに身を包んだ駿馬にまたがる。

 そして、それぞれが心に決めた貴婦人へ向かって、馬上槍を打ち振ってみせるのだ。

 その容子を見た貴婦人たちは、胸が詰まるような幸福に身を震わせつつ、我が身を包む外袖スリーブだの、ハンカチだの、スカーフだのを、小姓に命じて意中の騎士へ届けさせる。

 云うまでもなく、騎士は何よりもまず、心の中で愛を深め合っている、わが意中の貴婦人のためにこそ戦うものなのである。

 貴婦人らは、多くの場合、その騎士よりも歳上で身分も高く、夫のある身なのだが、ガリア全土の慣習として、騎士と貴婦人の間ではぐくまれる、心の中でのこの種の恋愛は、不貞の愛とはみなされなかった。

  

 さて、王の席から少し離れて、くだんの白き姫イレーネ殿下が、無表情のまま席に座していた。彼女は十歳にしてはじめて、この華々しい見せ物を観戦するわけだが、眼下で繰り広げられる悲喜劇、宮廷愛劇、武勇譚には一切興味が無さそうであった。

 逆に、傍らに控える侍女の方が、いつもに増して興奮気味にまくしたてていた。

 

「アア、姫様、いま御前を挨拶されましたのが、プロイツェン攻略の一番槍、ナンシーのクローヴィス卿でございますわよ!」

「あッ、いま高々と嘶きましたマレンマ産の雄馬の側におわす群青の騎士様が、トゥール伯でいらっしゃいますわ!本日はお出ましにならないとお聞きしましたのに」

 などと彼女が耳元で騒がしくするのを、イレーネ姫は冷やかに無視した。

 この侍女が雷鳥のように騒がしくするのは今に始まったことではないし、彼女が騒ぐのを見て愉快を覚えぬが、咎めるほど不快でもなかったのである。

 幼い姫は、しかし目線だけは絶えず動かし、何かを捜している風ではあったが、侍女は喋るのに夢中でそれに気付かなかった。

 

 

 さて、楽隊の演奏はいっそう高くなり、喧噪ますますさわがしく、桟敷の上でも下でも、無謬王キルデベルト六世陛下の治世を寿ぐ万歳と、眼前を騎行する騎士たちへの喝采が鳴りやまない。試合場には、宝石箱を擲ったかのような、色とりどりの騎士華が咲き乱れ、かれらの従者たちも、互いの軍装の華美を競うが如く、主人と同じ色のお仕着せを着飾った。

 この日、馬上槍試合トゥルネイに参加を決めた騎士は六〇名。各々が槍先に、意中の貴婦人から頂いた愛の印ファーヴォワをくくりつけて、その婦人の為だけに戦うことを、これ見よがしに誓って見せていた。

 

 ――そんな中でただ一騎、文字通り“異色”の騎士がいた。

 その異色というのは、かの騎士だけが、錫のように輝く純白の甲胄のうえから、純白の戦袍を纏い、同じ色の馬鎧に身を包んだ白馬に跨って、一同とやや離れたところで輪乗りをしているのである。

 その白い騎士こそが、昨日、饗宴の最中にランスへ到着した旗騎士、アルヴァレス卿であった。

 

 

五.

 

 

 旗騎士アルヴァレス卿は、生粋のフランドル貴族ではなく、父親も母親も、ベルガの人である。

 それでもなお、国王の彼に対する寵愛は、昨日の例の通り、いささか度が過ぎていると噂されるほどの、篤厚なものであった。

 いまはフランドル伯王弟殿下が治める地リエージュ州こそが、かれの生家があった地であり、現在はプロイツェン軍に破壊された市城の復旧がいくらか進んでいる状況である。 

 祖国を喪ったアルヴァレス卿は、当時ゲント伯であったキルデベルト六世の元へ臣従を誓い、以後、伯の軍が諸侯を圧倒するほどに戦地で功名し、その登極を大いに扶けた。

 王の即位後、アルヴァレス卿はさらに武略めざましく、長年の怨敵であるプロイツェン王国攻略の際は常に先陣を駆け、一昨年のロンバルド王国攻略に於いては、雪中のアルプスを越えて戦局を決した。

 フランドルに騎士多しと云えども、アルヴァレス卿の前に立つ騎士は王国に幾人いるものか、という評判さえある……

 ――などの事を、騒々しい侍女から聞かされたイレーネ姫は、はじめて気付いた風に、さも興味のうすい眼で白い騎士を一瞥した。

先刻来、姫が緋色の眸で捜していたのは、他でもなく、かの白騎士なのである。

 彼女の目には、毒々しいほど華美な軍装に身を包む他の騎士に較べ、白騎士の輝くばかり甲冑が、如何にも涼しげで、風韻さえ帯びているようにみえた。

 白騎士は、白い兜を鞍に掛け、日焼けした顔を外気に晒している。

 その騎士の目を、王女は凝視していた。

 昨夜、饗宴の席で同席したときよりも、その眸はより憂いを増しているようであった。

 王女は、その眸に魅入られた。気付かぬうちに身を乗り出して彼の姿を目で追い続けている。

 

 騎士たちは、三〇人ずつにわかれて、東西の陣地へと向かってゆく。

 一騎討試合ジャウストと異なり、馬上槍試合トゥルネイは、如何に上手に模造槍を砕くか、などという雅な競技ではない。騎士たちは互いに武技の限りを尽くして相手を馬から叩き落とし、さらには剣を以て戦い、武器を完全に失うか、降参するか、戦闘不能になるほどの重傷を負うまでは、踏みとどまらねばならなかった。

 そして殊勲の者は、自ら手捕りにした敗者の高価な馬や鎧、あるいは本人の莫大な身代金や領地を、後から受け取ることができた。当時の騎士にとって、仕合は貴重な財源でもあったのだ。

 ちなみに此度のような祭日の催しでない場合、馬上槍試合トゥルネイは会場を設けず、数百名が参加する模擬野戦となり、数日の間に多くの死者を出すことさえもあった。

 

 陣地を確認し、双方の紋章を覚えた騎士達が、ふたたび観客の歓声に応えるべく、試合場をゆっくりと練り歩いている時である。

 王女は一つのことに気付いた。

 アルヴァレス卿は、他の騎士たちと異なり、槍先に何者の「愛の印ファーヴォワ」も付けておらぬのである。

 このことは、他の何よりも、王女の興味を引いた。

 繰り返すが、当時の騎士たる者は心の中に女王を頂き、その女王の為に戦うのである。その女王は、自分よりも尊貴な女性であるがよく、たとえば公妃や主の夫人など、決して結ばれる筈のない相手であることが望ましかった。真実の愛フィナモールを貫き、心に邪を生じさせない為である。

 

 さりとて、あの白騎士は――

「なぜ、あの騎士は槍に誰の徴もつけていないの」

 さわがしい侍女は驚いて姫をみた。彼女が姫の声を聞くのは実に久しぶりの事だからであった。

「アルヴァレス卿は、なるほど威儀を備え、礼節正しく、武勇に優れた騎士ではございますが、なにぶん、異邦人でありますゆえに、お宮のやんごとないご婦人方と、御縁がありませぬやら」

 侍女は応えて云った。

 充て推量ではあったが間違いでもなく、事実アルヴァレス卿は宮廷よりも戦地にいる間が長いため、心に秘めた貴婦人など定めようが無かった。

 いずれにせよ女官らの無責任な噂に過ぎないので、侍女は笑ってそれを伝えたに過ぎなかったのだが、白き王女は真剣な表情かおでそれへ頷いた。

 侍女は、姫の関心が少なからずあの異邦の白騎士に向けられていることを驚いたが、次の一言でもっと驚くことになる。

「ならば――」

 と、姫は自分の髪留めのリボンを解き、幼い手を伸ばして侍女に手渡したのである。

「私がかれの庇護者になり、かれの心を納め、勝利を受け取ります」

 これには、侍女も正体を失うほどに驚いた。しかし十歳の王女は大まじめな表情でつづけた。

「そのリボンをあの騎士へ届けなさい」

 白銀色の髪と、雪白の肌と、紅い瞳をもつ王女イレーネは、硬質な声で侍女へ促した。

 

 

 六. 

 

 

 侍女は、困惑した。

 なるほど、詩人たちが歌う物語の中には、風采の優れた気高い騎士が、異国の姫へ愛を誓い、その袖を証として頂き、見事仕合に勝ち抜いてゆく――というものがあった。

 だが、この姫はわずか十歳の童女であり、おまけに女の方からすすんで証を与えるというのである。

 今一度、王女の白い顔を見直すと、王女は常と同じく無表情であった。

 が、よく見れば、王女の透き通った頬には仄かに紅がさし、わずかに上気しているように見えなくもなかった。

 これは、こどもの遊びであろう、と、侍女はようやく思った。

 いかにも怜悧で、幼児らしさの欠片もなかった王女に、こういった児戯に興じる稚気があることは、侍女にとって意外で、心楽しいことであった。

「お請け致しました、姫様」

 侍女は、これを戯曲として理解した。わざとらしく、劇中の人間のように恭しく頷き、物語の一幕のような優雅な所作で、リボンを手に桟敷を降りた。

 その容子を、イレーネ姫は桟敷の上から身を乗り出して見守った。

 周囲の者や、観客達も、試合開始を目前に控えたこの闖入に、好奇の目を向けた。

 ――何とも、大胆な侍女ばらがいたものだ、と、はやくも誤解した老騎士が、大きな声で呟いている。 イレーネ姫にしても、実際、我が唇が斯様なことを口走り、かくも奇異な行為に走る理由が解らなかった。

 ただ、先日の宴で、隣り合ったにもかかわらず、自分へ一瞥もくれない騎士の横顔が美しかった事だけ覚えている。

 食事中、横合いから、父王に過剰な褒辞を浴びせかけられても、アルヴァレス卿は唇の端に微笑ひとつ浮かべず、 無愛想と云って良い態度で、慇懃に礼を返すだけであった。

 高貴な諸侯の挨拶に対しては、作法に則った返礼を施し、僚輩からの賛辞に対しては鷹揚に頷いて見せる。全てに共通しているのは、一連の動作が終われば、もはやそこに人はいないとばかりに打ち棄てるところであった。

 これには王女も内心不思議に感じ、時々緋色の眸でその横顔を覗き見たものである。

 昨夜の僅かの間に、王女が、まるで自分の鏡であるかのような騎士の振る舞いように、少なからぬ興味を抱いたのは間違いなかった。

 

 侍女は、従騎士を介して白騎士へ近付き、何事かを話していた。やがて、侍女は振り返り、王女の居る桟敷を手で指し示したようである。

 これで観客たちにも状況が伝わったらしく、大きなざわめきが、宏壮な試合場に広がってゆく。

 人々は、白騎士と、白き王女の姿を代わる代わる見遣った。

 

 ――ところが、この晴れがましい馬上槍試合トゥルネイの舞台において、白騎士アルヴァレス卿はあまりに意外な仕打ちをする。

 彼はほとんど傲然とも云える所作で、侍女を追い返したのである。

 まるで槍の石突きで犬でも追い払うかのように、アルヴァレス卿は侍女を打ち捨てておいて、戛々と試合場の方へ戻ってゆく。

 美しく着飾った侍女が、茫然とした態で立ち尽くしている姿が、桟敷の上からよく見えた。

「――!」

 次の瞬間、幼い王女は赫ッとなって立ち上がっていた。

 王が何かを云ったようだが、王女の耳には入らなかった。 王女はおよそ淑女らしからぬ身ごなしで、純白のドレスの裾を破りながら、桟敷を囲む柵を抜け、木の階段を駆け下り、茫然と立っている従士たちの足許をくぐりぬけて、試合場へと降り立ったのである。

「姫様――」

 気付いた侍女が悲鳴をあげた。

 悲鳴を上げたのは侍女ばかりでない。桟敷の上にいた諸侯の夫人たちや、騎士、取締官、あらゆる階層にある観客たちが、詩にまで謳われた白き王女殿下の奇行に狼狽え、驚愕の声をあげたのである。

 その轟々たる声の中、王女は白い手足を動かして、不器用に駆けた。

 彼女の生涯で、およそ走るという行為は初めての経験であった。

 彼女が物心付いたとき、すでに父は王であり、自分はそのただひとりの娘であった。 王女は、年に一度、父に伴われて行幸するとき以外、城の奥から出たことがなかったのである。

 王を除くあらゆる人々は、彼女の姿を見れば拝跪するものと決まっており、諸人は彼女をこぞって美しいと讃え、見せたことのない一顰一笑を王国の至宝として礼賛した。

 一顰一笑!彼女は笑わないのではなく、笑えないのでもなく、笑うという感情を知らないのである。

 同じく、泣くだの怒るだの、そういう物語の中で登場人物がやたらと演じてみせる感情を、王女は知識としてのみ知っているに過ぎなかった。

 だが、いま歪な姿勢で駆けだしている彼女の感情は、あきらかな衝動を伴っていた。

 少女の緋色の眸の中には、誰の目にも明らかな憎悪が踊っていた。

 生まれて初めて、他人に抱いた好意を、万人の前で引き裂いて見せたあの男を、この十歳の少女は処刑したいと感じていた。物語で聞いた愚者ガルチの話のように、生きたまま凄惨な目に遭わせてやりたいと思っていたのである。

 

 

 七.

 

 

 王女は、ようやく白騎士の馬に追いついた。

 白騎士は、観客席の響動めきを察したのか、王女が眦にうかべた殺意を感じたのか、王女が呼吸を整える頃には下馬し、三歩離れた位置に立っていた。

 王女は震える声で、最初のことばをアルヴァレス卿へ投げつけた。

「なぜわたくしに跪かぬ!」

 幼い王女の叱咤は、白騎士の躰をそよ程にも動かさなかったが、さすがに白い兜だけは外して小脇に抱え、貴人に対してわずかな礼を見せた。

 王女は次に怨嗟の言葉を吐きかけようとして、息を呑んだ。

 間近に見た白騎士の眸が、昨日の翳とはまるで別の淵に沈み込んでいた為である。

 しばらく王女が黙っていたので、白騎士の方がはじめて口を開いた。

「――何か」

 底響きのする暗い声である。戦場では常に陣頭にあって手ずから幾百の敵兵を撃殺し、アーヘンでは生きたまま千余名のプロイツェン騎士を焼き殺したという、まさに死神の声であった。

 王女は、しかし怯むことなく死神の眸を睨み付けて云った。

「何故、わたくしの為に戦わない」

「あなたの知ったことではない」

 王女はふたたび眩暈がするほどの衝撃をおぼえた。彼女は人に自分の心を分かつ経験が無かったので、拒絶されるということも、これが初めてである。

 十歳の幼い王女は、どう答えてよいか解らず、死神の貌を睨み付けた。

 白衣の死神は、微かに表情をうごかした。──稚い少女の憤情を見、さすがに我が非情の胸に恥じたのかもしれず、あるいは弁明の必要を覚えたのかもしれなかった。彼はゆっくりと王女へ応えた。

「姫君、ご厚情は忝ないが、私は故あって、誰の為にも、我が愛を捧げ、戦う事は出来ない」

 この、いわば当代の常套句とも云うべき弁明は、幼い王女の気に入らなかった。彼女は緋い眸を鋭く細めると、薄い唇で白騎士を糾弾した。

「お前は、皆の前でわたくしを侮辱したのです。その罪を贖うには、わたくしの為に勝利し、武勲を私に捧げる以外にない」

 十歳の乙女は、軽くちいさな頤(おとがい)をあげて、侍女から引ッたくった白いリボンを、白騎士の前に突き付けた。

「姫君――私の愛は既にひとりの女性に捧げ、既にそれを誓っている。私は彼女以外の女性に対し、愛を捧げられないし、受け取ることもできぬ」

 これこそが、騎士道の華であった。

 十歳の少女と、三十にもなる旗騎士のあいだで、このような会話が成立するほど、当時の騎士の誓いは尊く、また女性に対して真摯なのである。

 あるいは軽佻な騎士であれば、このばあい、王女の譲歩に乗り、胸の中の佳人はさておいて、この稚い王女の真剣な遊戯に付き合うであろう。何故ならば、今も当時も、王女の愛はたいへん得難いものだからである。

 ところがアルヴァレス卿は、なお白い繊手から愛の証ファーヴォワを受け取ることをよしとしなかった。

 騎士の誉れ、諸兄も照覧あれ──とは云うものの、当時すでに完成の域にあった宮廷の恋愛技法で云えば、これは実にまずい問答であり、結果として、その一言が王女を激昂させたのである。

 王女は、白いリボンを地に擲ち、緋色の眸に憎悪をきらめかせて宣言した。

「アルヴァレス卿、お前に呪いあれ。お前を騎士に選んだ者に禍を、お前の剣と盾に接吻した者に等しく死が訪れるように」

 その恐るべき呪詛の言葉は、当時、交戦中の騎士の間で、まま使われたものであった。

「お言葉を──」

 と、アルヴァレス卿が返答した時には、かれは再び表情を消していた。少女の呪詛のすさまじさに、鼻白んだようであった。

「弁えられよ、姫君。あなたの呪詛は、結局、我が主であるあなたの父上を呪うものだ」

「おまえの知ったことではない」

 王女は幼い声で怒鳴り返した。緋色の眸から、ふたたび直截な憎悪が迸った。

 壮者も尚たじろぐような緋色の殺意に、白騎士は毫ほどの動揺も見せず、

「なるほど、私の知ったことではない」 

 と冷ややかに呟き返した。彼の視線はもはや王女を捉えず、彼方の桟敷の上にある国王キルデベルト六世へ向けられていた。

 ――王女は知らぬ。

 昨夜、饗宴の後、この白騎士と父王の間で、いかなる会話が交わされていたかを。

 アルヴァレス卿は、昨夜、またしても王との間に交わしていた約定を違えられていたのである。

 彼は王に対する失望を強くし、その連枝への視線も酷く冷めていた。

 加えて、この馬上槍試合トゥルネイへの出場も彼にとって甚だ不本意なものであった。かれはこの見せ物に参加する心算など毛頭無く、旅程を調節して誕生祭前夜に到着したというのに、よりにもよって王の遅刻のせいで、試合日程が当日までずれこんでいたのである。

 何もかもが意に添わず、彼はいわば、不機嫌の極みにあった。そうでなければ、無邪気な十歳の童女の、児戯にも等しい申し出を、こう大人気なく拒絶することもなかったであろう。

 ──また、王女は知らぬ。

 かの白騎士の槍先には、なるほど目に見える誰かの愛の印ファーヴォワは翻っていないものの、既に白騎士の胸には、忘れ得ぬ光景とともに、永遠を誓った約束がその時のまま留まっていることを。

 

 

 問答に飽いたのか、アルヴァレス卿は、無言で踵を返し、拍車を響かせながら歩み去ろうとした。

「待ちなさい」

 と叫びかけて、王女は自分の膝が震えている事に気付いた。追い掛けようにも、立っていることが不思議なほどに、彼女の足は無力な棒と化していた。

 実際、このとき王女は脱臼していた。生まれて初めて走るにしては、距離が遠すぎたのである。

 追うも、去るもできず、王女は茫然と立ち尽くすしかなかった。

 遠ざかってゆく白い戦袍を見送る緋色の眸に、みるみる涙滴があふれだした。痛みか、悔しさか、心細さか、ただひとり取り残された王女は、しゃくりをあげて、無言で泣き出した。彼女の乾いた足下に、はらはらと落涙の痕がしたたった。

 と、まさかその音が聞こえた訳であるまいが、白馬の手綱へ手を掛けていたアルヴァレス卿は、急に立ち止まった。

 そして拍車を鳴らしながら、ふたたび歩み戻ってきたのである。何を思ったか、籠手の留め金を外しながらであった。

 白騎士は、籠手を外し、中の革手袋を噛み破って脱がすと、王女の方へさらに一歩歩み寄った。

「寄るな」と王女は叱咤したが、声は怯えに震え弱々しい。

「騎士として不調法だが、決してお暴れにならぬように」

 アルヴァレス卿は一言ことわると、軽々と王女の小さな躰を抱き上げて、重い甲胄を付けたまま平然と元の桟敷へ向けて歩き出した。

 王女はにわかに現実を見失って、暴れるどころか呼吸することさえ忘れて、目の前のアルヴァレス卿の、無愛想な貌を見つめる事しかできなかった。

 

 ――この光景だけを遠望すれば、異国の騎士と純白の姫君の、ささやかな恋の物語として、一幅の絵となり、詩にもなりそうな状景であった。そのためか、この日アルヴァレス卿を非難する声は、めずらしく一切上がらなかった。

 

 八.

 

 思わぬ出来事があったものだが、馬上槍試合トゥルネイは定刻通りに開始された。

 百載は記されるべき晴れがましい舞台が整い、華美な甲胄と外衣に身を包んだ騎士が、従者を引き連れ、見事な隊列を整えはじめる。

 殺気立った名馬の嘶きと、甲胄と得物が触れあう金属音、伝令士が駆け回って口上を叫ぶ独特な開戦の空気は、人々の血気を弥が上にも沸き立たせるのである。

 実際にラッパが鳴る前から、会場内へ入ることができた千余名だけでなく、柵外へ群がるその数倍の観衆が轟かせる鳴り物、歓声の類で、隣の人の声を聴くことさえ容易でなかった。

 その騒擾のなかで、王旗幟バニエレ・ド・ロイを高らかに掲げた伝令士が、声を限りに、今日の仕合の約定を繰り返していた。

 ――この度の仕合は、あくまで各々の武勇を試すものであり、殺生は国王陛下の本意にあらざること

 ――馬上から、落馬した者への攻撃は極力控えること。騎馬による轢撃は、これを固く禁じる

 ――長剣、戦斧は真剣を用いるが、致命部への打突は禁じ、躰めがけて撃ち合うこと

 ――短剣でとどめを刺す行為は一切禁じる

 そのほか、試合場の端へ追い詰められた場合その者は「捕虜」となることや、負傷者、捕虜が身を横たえてよい安全地帯の説明、従者は負傷した主の救出へ乱入しても良いが、その場合主は敗者となること――など、他こまごまとした説明がつげられた。

「騎士の皆様がたは銘記されよ。各々のご武勇は必ず国王陛下の御目にとまり、特にめざましきは祐筆に記録されるに相違なく、逆にご卑怯はたちどころにご婦人方の蔑視に晒され、その盾には末代までの不名誉加紋を被るでありましょう」

 そう締めくくると、国王陛下万歳を唱え、伝令士は王旗幟バニエレ・ド・ロイを翻しつつ駆け去った。

 そうして、観客はあらためて目を見張った。伝令士が大いに喧伝しているあいだにも、会場の用意は刻一刻と調い、もはや両陣営の騎士がたは、穂先を天へ向けて、整列を終えているのである。

 ラッパが一度鳴った。

 これは、突撃用意の合図であり、いっせいに両陣営の穂先が、敵の咽喉を貫くほどの兵気を篭めて水平へ下ろされた。馬上仕合槍ランスとよばれる、人の身長の数倍はある恐ろしく長い槍である。穂先は丸く、危険な負荷が掛かれば容易に砕けるよう細工されている樫材ではあるが、例えば騎馬の勢いを得て、目庇の間を抜けて顔を直撃すれば、間違いなく即死する程の威力はある。

  

 嘘のような静寂の後、もう一度、ラッパが鳴り響いた。

 王陛下が頷き、右手を掲げるのを確認するや、両軍の旗頭は同時に、

「突撃――――」

 と雷のような大声で怒鳴った。

 構えに入っていた色とりどりの騎士たちは、各々の位階に応じた材質の拍車を、力強く馬腹へ当てた。

 隊列は4列。血統正しい名馬たちは悍馬へと変わり、重い甲胄をよろう人間どもを載せ、一直線に奔走を開始した。

 仕合が始まったのである。

 

 

 この日、両軍の旗頭は、詩人としても名高いナヴァール大公と、ブルゴーニュ伯の両貴顕である。

 風采も甲胄も際だって立派な大将は、その輝かしい血統に比しても羞じぬ豪傑であり、旗頭でありながら、二人とも揃って先頭から二列目の危険な位置にあった。

 云うまでもなく、旗頭の旗が敵方へ奪われた時点で、そちらの勢力は負けとなるのである。

 

 白騎士アルヴァレス卿の姿は、ナヴァール大公の隣にあり、昨夜の遺恨を晴らすべく参戦したランスの城令はそのすぐ後ろ、その対手であるトゥール伯は敵方ブルゴーニュ勢のなかにあった。

 突進を開始した騎士は、知らず、鬨の声を喚きあげ、槍先の位置を調整しながら、衝撃に身構えた。

 ──まもなく試合場の中央で先頭の騎士が衝突をした。

 全力疾走をする騎兵同士の激突たるや、凄絶な光景である。重い金属がぶつかり合う凄まじい大音響と、会場から一斉におこる悲鳴と歓声、すべてが混じり合って、遙かランスの都城の内でも、耳鳴りがするほど激しく轟いたという。

 

 

 九.

 

 

 砂煙が濛々と捲き上がり、投げ出された騎士の呻き、横倒しになった軍馬の嘶き、さらにそれへ押しつぶされた騎士の悲鳴が混じり合って、最初人々は、その戦局を見定めかねた。

 やがて、無事であった騎士が、土煙を突っ切って、反対側へ飛び出して来るに及んで、ようやく両軍の損傷具合が互角であると知れた。

 幸い旗頭の二人は、互いの槍を互いの盾で突き折っただけで済み、落馬することもなく無事な旗幟を会場へ示した。

 ふたたび歓声と悲鳴が交錯した。こと悲鳴となると大きなもので、見れば、砂煙の薄れるうちに、地面へ投げ出された騎士たちの姿が明らかになり、それへ愛を与えた貴婦人方の悲嘆たるや相当のものであるらしかった。

 最初の突撃で落馬した者は、双方あわせて10名を超え、そのうち半数は何らかの怪我を負ったようで、立ち上がることさえできぬ容子である。

 ふたたび旗頭を中心に、両軍の騎士が駆けつつ集結をするが、これからは、いわば集団戦となり、乱戦の中、いかなる間違いがあるか知れず、旗頭は後方で護られなければならない。

 素早く攻守の陣形を整える両軍の中で、最初に二度目の突進を始めたのはナヴァール大公の陣列に在ったアルヴァレス卿であった。

「見よ、白騎士が先駆けするぞ!ご覧じよ、ご婦人方!」

 桟敷の上から、キルデベルト六世陛下は指さして怒鳴った。

 それへ合わせて、人々は、口々にその容子を差して騒ぎ合った。

 アルヴァレス卿は、ほとんど単騎といってよいほどの位置に突出して、整いかけている敵方の陣形へ突入した。

 驚いたのはブルゴーニュ勢で、慌てて穂先を揃えて迎撃するも、アルヴァレス卿は伯のことを最初から無視するように斜行し、敵勢はそれへ引きずられるように、隊列を斜めへ崩した。

 その歪みに、アルヴァレス卿の後を追ってナヴァール勢がぶつかったものだから、余計に陣の崩れは大きいものとなった。

 敵陣を突き抜けたアルヴァレス卿は、さらに馬首を巡らせ、別の方角へ向かって駆けた。ブルゴーニュ勢は、狼狽して振り返る者だの、眼前の敵手を打ち倒そうと逸る者だの、大いに混乱を続けている。

 一方、白い騎影を必死に追い掛けているうちに、誰知らず、ナヴァール勢は隊列のようなものを組み始めている。丘陵めいた高地で、ふたたびアルヴァレス卿がぐるりと方向を変えただけで、まるで馬上で打ち合わせでもしたかの如く、整然とナヴァール勢は旋回した。

 その見事さ、一糸乱れぬ陣列の美しさに、会場からいっせいに感嘆の声が挙がった。

 国王は腿を手で打ち鳴らし、扈従の騎士たちをかえりみた。そして熱心に訓戒した。

「各々方、よく目に見よ、鞭も旗も振るわず、ただ騎行するだけで、今日まで見ず知らずの騎士が思うさまに動くのだ。将の進退の何たるか、よく見、戦場への土産とせよ」

 キルデベルト六世陛下は、専ら国政などを摂政に委ね、自らは芸術の守護者を以て任じ、あやまち無き王なる呼称を、誰からではなく自ら考案して流行らせるなど、ガリア三国の覇王としては軽忽なところが目立つが、元来はこのとおり、戦場の人なのである。

 

 

 高貴な婦人方も総立ちとなり、日頃の恭謙をかなぐりすて、喉をふるわせて声援をとばしている。

 彼女たちでさえそうなのだから、桟敷の下の見物席にひしめきあう幾千の観戦人たちに至っては、矢来のそばまで押し合い圧し合いし、両腕を振り上げて獣のように咆哮していた。

 陽は沖天にある。馬上槍試合トゥルネイの熱狂は、この日の最高潮を迎えようとしていた。

 激闘すでに一刻が過ぎ、敵味方ともに、半数が捕虜となったり、負傷者として搬送されたりして、二度休憩を挟み、三度目の衝突が繰り広げられているのだ。

 騎士の練達の武技が顕されるたび、人々は鳴り物を打ち鳴らして大いにを囃し立て、「騎士の誉れよ、見事な一撃!」 と合唱し、逆に敵へ背を向けて後退しようものならば、農夫であっても聴くに堪えないであろう、とほうもなく野卑な罵声が飛び交った。

 既に二人の騎士の死亡が確認されているが、うちひとりは熱射病による頓死であった。

 それほどまでに、仕合は白熱していた。

 その中でも、特にめざましい活躍をあらわしたのは、誰がどう見ても、ベルガ騎士のアルヴァレス卿であった。

 白銀の甲冑は常に戦場を支配し続け、彼とすれ違うブルゴーニュ勢は、次々と馬から突き落とされた。仇討ちとばかりに、幾人かの騎士がこれを阻もうと馬を寄せるものの、アルヴァレス卿の駆る白馬の脚もまた素晴らしく、みるみるうちに突き放されてゆく。

 これは最初、フランドル人の観客にとって大いに不快な状況であって、不甲斐ないフランドル騎士と、不遜なベルガ騎士双方に対し、大いに野次が飛び交ったものである。

 だが、ここまで彼我の差が明確であると、かえって痛快に転じるものらしい。

 そのうち、アルヴァレス卿の槍が誰かの円盾を激しく突き、鐙を蹴って騎士が転落するたびに、

「お見事!ベルガの騎士アルベルジュ!」

 と囃し立てるようになった。

 

 

 ──他方。

 無邪気に歓声をあげる父王、騎士の活躍に一喜一憂する貴婦人方、騒々しい侍女らとは、まるで別のものを見ているように、緋色の眸を見開き、イリーナ姫はすさまじい形相で仕合を睨みつけていた。

 忘我のひとときが済み、我に返ったとき、すでに仕合は始まっていた。

 そして彼女は、見たくもないものを、まざと見なければならなかった。

 意中の貴婦人から受け取った片袖だのスカーフだのを括り付けた、色とりどりの華やかな騎士たちが、何者の愛も纏わぬ純白の騎士の鉾先に掛けられ、次々と馬上から打ち落とされてゆく情景である。

 ──あの白騎士!

 十歳の王女は、我が爪を白い腿に食い込ませて、渦中の異邦人を睨み付けた。

 かれのあの槍先に、彼女の白いリボンが翻っていたら、今頃どれほど誇らしく、愉快な気分であっただろうか。詩には聴く貴婦人の真の愛フィナモールの悦びとは、こういうときにこそ満喫できるのであろう。

 彼女は、アルヴァレス卿が喝采を浴びるたび、いまだ自分では味わったことのない感情をチラと想像しては、よけいに白騎士へ対する憎しみを強くした。

 その反面で、赤、緑、青、黄、橙、緋といった色鮮やかな騎士華が、白一色の動きに合わせて、絢爛に競い咲く万朶の美しさを、陶然と眺める彼女の真情もあった。

(アア──)

 と、王女は、幼い唇から恍惚とした声を漏らした。

 遠望する白衣の騎士は、あまりに美しく、殺したいほどに愛おしかったのである。

 腿に突き立てた爪は、すでに透明の柔肌を裂いて、肉を突き破り、鮮血が指の間から滴るほどであったが、幼い王女はそれにさえ気付かなかった。

 先刻来、少女の下腹部から滾々と沸きおこる得体の知れない衝動を馭しかねて、白き王女は桟敷の席上、ひとり身じろぎを続けていた。

 

 

 十.

 

  

 激闘はさらに半刻も続き、折りも善しとばかりに、予備兵力として後方に控えていた双方の無傷の旗頭と旗本たちが、それぞれ馬を進めて参戦した。

 たちまちファンファーレが鳴り響き、観客のどよめきはひときわ大きくなる。いよいよ、仕合の終幕が近いという報せである。

 疲弊の極にあった騎士達も、ここが先途と、最後の膂力で槍を振り上げ、迎撃をはじめた。たちまちのうち、ブルゴーニュ伯はアルヴァレス卿の標的となった。

 とはいえ伯も豪勇の士で、人馬ともに充分の休憩をとっている。無敗の白騎士にとっても容易な相手ではなかった。

 そこで、ブルゴーニュ伯自身の対手は、大公と旗本にまかせて、アルヴァレス卿はもっぱら、彼の旗本を追い散らすことに専念した。

 

 その一方、試合場の一隅で、鹿の肉だの、無礼者だのと、互いに要領を得ないことを怒鳴り合いながら、果てしなく剣闘を続けていたトゥール伯とランスの令の姿がある。

 そこへ、どっと人馬の一群が乱入した。

 これはアルヴァレス卿に蹴散らされたブルゴーニュ勢が逃れてきたものであり、そのすぐ背後には、恐るべきベルガ騎士が迫っていた。

 トゥール伯の不幸は、彼がこの日、ブルゴーニュ勢に属していた事と、たまたまアルヴァレス卿の進路にいたことであった。

  アルヴァレス卿は、馬上で無造作に槍を伸ばし、騎影に気付いて飛び退る伯の背中を一突きした。

 哀れ、伯は毬のように弾ねとばされ、重々しい甲冑の音を響かせてランス令の足もとまで転がり、回転を止めた。

 ランス令は高らかに勝利を宣言し、剣を伯へ突き付けたが、伯は既に気絶している。

 

 

 このほか、アルヴァレス卿の働きの及ぶところ、及ばざるところで、数々の悲喜劇を繰り広げながら、かくも華々しく勇壮な馬上槍試合トゥルネイの勝敗は、いよいよ決そうとしていた。

 最後の局面で、残り二騎まで討ち減らされたブルゴーニュ伯の馬廻りをとりかこみ、ナヴァール大公が大声で利害を説いた。

 敗者の自由意思による投降は、寛容を以て扱われる。つまり身代金の軽減を条件に、大公は伯へ降伏を呼びかけたのである。

 ここまでくると、仕合と云うよりは演劇の世界であろう。伯は面頬の下で、血の滲んだ貌をゆがめて嗤い、馬上で長剣を抜き、地面を指し示した。

「ここに、一人の騎士が虜囚の辱めを逃れ、貴族の意地をば見せんとす」

 詩の一節をもじった宣言を朗々と唱えると、試合場はまるで爆発したかのような歓声につつまれた。

 大公は、苦笑いをして、馬廻りへ突撃を命じた。

伯は果敢に迎え撃ち、剣で掛かってきた一人を馬上から叩き落としたが、次に長槍で突き掛かった騎士へは如何ともし難かった。

 ブルゴーニュ伯は、馬上から突き落とされ、鞍に差した旗幟バニエレを、とうとう奪われてしまったのである。

 

 

 この日のランス郊外における馬上槍試合トゥルネイは、仕合の規模としては中程のものであったが、その華々しい名勝負が評判を生み、数多の詩や歌の題材となった。

 たとえば、ブルゴーニュ伯の「最期」の容子など、特に諸人の印象の強い場面は、仕合ではなく戦場の物語に置き換えられ、後生、彼自身は参戦したこともないブリタニア戦役で、見事に戦死したことになってしまう。

 実際の伯は、ブリタニア戦役の四年後に肺炎で薨じているが、今日、おそらく誰に訊ねても、ブルゴーニュ伯の墓所はブリタニアという答えが返ってくるに違いない。

 そのほか、参加した六〇名の騎士一人一人に、勇戦に相応しい詩が送られ、とくに押韻のよろしいものは、後の作家によって戯曲にまでなった。

  ──ただしその中に、白衣のベルガ騎士が登場する事は決して無い。その理由は後ほどおわかり頂けるはずである。

 

 閑話休題それはさておき、会場の人間は総て立ち上がり、勝者や敗者へ惜しみなく拍手を贈り続けた。

「国王陛下万歳」

 と、冒頭の伝令官が再び叫びつつ登場すると、一同は声を大にして唱和した。

 仕合の熱狂をそのままに、無謬王キルデベルト六世陛下は、彼の生誕記念を寿ぐ歓声を一身に受けることが出来たのであった。

 

  

  このような仕合の後は、主催者から、勲功一番の騎士が選ばれ、その名誉を称えられるものである。

 この日の殊勲は、誰がどう見ても、白き騎士アルヴァレス卿以外にありえなかった。

ベルガの騎士アルベルジュベルガの騎士アルベルジュ!」

 と、フランドル人の観客たちは一斉に声を合わせ、異邦人である彼の名を呼ばわった。

 これは国王も同感であったようで、その連呼へ頷きを与え、すぐさまアルヴァレス卿を呼び寄せるよう、小姓を走らせた。

 ところが、驚くべき事に、すでにアルヴァレス卿が控えているはずの天幕パヴィリオンはもぬけの空で、要領を得ない数人の従士らが、伝言を手渡されているだけであった。

 アルヴァレス卿は、このわずかな時間のうちに、甲冑を脱ぎ棄て、換え馬に鞍を掛け、風のようにロンバルド方面の居城を差して引き上げてしまったというのである。

 

  

 十一.

 

 報を受け、

「──これは何としたことかな」

 と、キルデベルト六世陛下は困じた貌で左右へ訊ねた。

「アルヴァレス卿の進退は、騎士として無礼であり、臣下として不遜であります」

 それは当然のことではあるものの、少々きわどいながら事は大逆と騒ぐ程のものではなく、追っ手を差し向けて拘束するのは大げさすぎた。

 また、アルヴァレス卿の書状には──

  東方の辺塞、寧日無し。一日の不在、千載の禍を招く畏れあり

 などと、辺境慰撫の急を説き、ひとえに忠あっての退転ととれなくもない。

 アルヴァレス卿の武名を用いること、まだまだ切なる首脳陣にとって、逐電じみたかれの行動に、いちいち刑法を用いるのは躊躇われた。

 但し――お咎め無しというわけにもゆかず、アルヴァレス卿には、別に峻厳な罰が下さることになった。

 彼は、この日の馬上槍試合トゥルネイ出場者から、その名を削られることになったのである。

 それに従い、この日の彼を唄う詩賦の類が抹消されてしまったことも、また無理からぬ事ではあった。

 

 結局、この日の殊勲者は、無難に旗頭のナヴァール大公と、ブルゴーニュ伯を倒して旗幟を奪い取った騎士が選ばれた。彼は旗騎士ラヴォワ殿の女婿であったから、これも何かの奇縁であろうと、人々は噂し合ったものである。

 いずれにせよ、アルヴァレス卿の名前が挙がらなかったことについて、会場からは大いに不満の声も挙がったが、一方、異国人である彼よりは、フランドル騎士が選ばれた方が誉れである、という意識もあり、事はうやむやに掻き消された。

 

 

 一方でアルヴァレス卿に手捕りにされ、屈辱の降伏約束フィアンセを誓わされた騎士達は、そのような事情にかかわらず、彼に莫大な身代金や、騎馬、甲冑などを支払う義務があった。

 ところが、アルヴァレスは退転の際、わざわざ敗者たる騎士の元へ使いをやり、「騎馬も甲胄も、各々の身代金も、いっさい不要である」という旨を伝えさせていた。

 これは当時の騎士道でいえば、大いに賞賛されて然るべき立派な行為であり、伝え聞いた貴賓は、アルヴァレス卿の恬淡ぶりに感嘆の声を送った。

 ただし、助命された騎士の中には、かえって屈辱と感じ、その日身に纏っていた甲胄と戦袍をすべて処分してしまう者まで居たという。

 

 

 以上の余談を含みつつ、この夜の饗宴は予定通りに開催された。

 昨夜の慌ただしさと比して、この夜は用意する側にもゆとりがあり、饗宴は贅を凝らしたものとなった。

 数種類のスパイスを利かせた鹿肉が切り分けられ、雉、青鷺、白鳥、孔雀、そして鶉の雛肉を煮こんだフルメンティ、詰め物をした豚のロースト、鶴、去勢した若い雄鶏の姿焼き、渓流の小魚のロースト、舌平目のムニエル、骨髄と獣脂のゼリーで固めた仔兎の肉、などを盛りつけた膳が、入れ替わり立ち替わり運ばれてはまた持ち去られ、芸術的に彩色された装飾菓子サトルティ、たっぷりとシロップを用いたパイ、季節の果物が、贅に飽いた人々の口を休ませた。

 そして宴席の中央には色とりどりのワインが吹き出る小型の噴水が設置され、出席者の目と喉を楽しませるのである。

 

 この日、仕合において勝者の光栄に浴したランスの城令は、大得意であった。

 怨恨ある彼の対手トゥール伯は、可哀想なことに、まだ用意された寝室で唸っているそうである。

 昨夜のように甲斐甲斐しく、王陛下や金枝玉葉の皆々様へ給仕をつとめる彼は、ふと昨夜と違う光景を目にした。

 この日のイレーネ王女殿下は相変わらず無表情ではあったものの、先日とうって変わり、少量ではあるが年相応の健啖ぶりを示していたのである。

 ランスの令が、パイ生地を切り分けて、鶏の蒸し肉を恐る恐る皿パントレンチャへよそって差し上げると、姫は小さい声で

「ありがとう」

 と礼まで云うのである。

 これはきっと、今日のあいだに何事かあったに違いない、と、ランスの令も勘付いたが、彼は仕合に出場していた為、アルヴァレス卿との出来事は知らなかった。

 

 その王女の変化には、無謬王キルデベルト六世陛下も気付いたと見え、彼は姫へ訊ねた。この王は、大凡の話を侍女から聞き知っている。

「今日は、アルヴァレス卿と何を話されていたのかね」

 すると姫は、緋色の眸をかすかに細めて、逆にこう訊ね返した。

「ねぇ、お父様。あの騎士様は、いつ国都へ戻られるのかしら」

「姫よ、なぜそのようなことを訊ねられるのか」

 姫は、ようやく返答した。

「今日、遊んで頂いたお礼を申し上げたいの。――宜しいでしょう?」 

 銀色の髪が風を孕んだ。

 緋色の眸に殺意と恋情を閃かせて、十歳の小さな姫君は、楽しそうに笑ったのである。